jeudi 26 mai 2011

24時間の情事

愛国者でもなんでもないのだが、読書がかつて好きだった一読者として「フクシマ・モナムール」という表現を何十回と色々な媒体で目にするのは、やや食傷気味である。最初(一番最初に使った人は)は言葉遊びとして気がきいていたのかもしれないけれど、なんだか繰り返されるとそれが意味のない音になっていくようが気がする。というか、やっぱりデュラスに失礼だ。アランレネにも。で、フクシマの人にも。フクシマ私の恋人といってみても、すべてが元々の形をなしていない(元に沿っていない)ので言葉だけが空に舞う。